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理念の礎となった経営者たち

1876年(明治9)に創立された旧三井物産は、第二次大戦後、GHQによる占領政策の流れの中でいったん解散を命じられている。現在の三井物産は、解散によって生まれた第一物産をはじめとする数十社の企業が、1959年(昭和34)に“大合同”を遂げることで誕生したのである。従って、旧三井物産と現在の三井物産の間に法人格的継続性は存在しない。しかし、旧三井物産が残した数多くの輝かしい実績や、初代社長・益田孝をはじめとする伝説的経営者・人材の精神、言動は、現在をも貫く理念、DNAとして、三井物産とその社員の中に生き続けていると言えるだろう。
ここでは、社内外に大きな実績を残した4名の伝説的人物をとりあげ、その横顔を紹介してみたい。

    益田 孝

    Takashi MASUDA

    1848年、佐渡・相川の地役人、益田鷹之助、らく夫妻の長男として生まれる。19歳の頃、幕府軍の騎兵頭となるが、官軍の力を目の当たりにして敗北を覚悟。実業の世界へ転身することを決意し横浜へ向かう。益田はもともと、父の意向で英語を学んだことがあり、横浜では商人の代理として西洋人との交渉役を務めたりしながら生計を立てていたが、1871年(明治4)、米国の大手貿易会社ウォール・シホール商会に採用されてから、わが国における貿易の第一人者としての歩みが始まる。

    益田の人生を変えたのは、維新の志士の一人であり、明治政府の大蔵大輔として財政運営を取り仕切っていた井上馨との出会いである。益田は、井上に見込まれて大蔵省に入省するが、井上が江藤新平らと対立し、野に下って貿易会社・先収会社を設立することになり(1875、明治8)、益田はその副社長に就任。実質的には、貿易実務に通じた益田が、先収会社の経営を取り仕切るようになる。同じ頃、三井の大番頭として経営の采配を振っていた三野村利左衛門は、貿易が外国商館に独占されている状況を憂い、なんとか三井自ら貿易業を成功させようと努めていたが、なかなかうまくいかなかった。そんなとき、三野村のもとに、井上馨が政界に復帰し、先収会社を解散するというニュースが飛び込む。三野村は、井上を介して益田と面会し、益田に三井の貿易会社を任せることを決意する。

    こうして1876年(明治9)、旧三井物産会社が誕生することになる。益田は1876年から1892年(明治25)まで旧三井物産の社長を務め、当初三野村らが描いていた「貿易会社」を遥かに超えた、「総合商社」という業態を創造した。益田はまた、茶人・鈍翁としても知られ、古美術の権威でもあった。日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊し、自ら健筆をふるうなど、その業績は多方面に及んでいる。1938年(昭和13)死去。

    安川 雄之助

    Yunosuke YASUKAWA

    1870年(明治3)、京都の農家に生まれる。少年時代は政治家を志すが、大阪の外国人居留地で商人達が活発に商談を行う風景を見て、実業の道に惹かれるようになる。市立大阪商業学校(大阪市立大学の前身)卒業後、1889年(明治22)、旧三井物産大阪支店に入社。1891年(明治24)、東京本店に異動となり、主に綿花や紡績機械の輸入を担当。1892年(明治25)、増大する綿花需要に応えるために、初めてインドに出張所を開設することになり、初代ボンベイ出張所長に抜擢。見事重責を果たす。ここから、明治後期~大正にかけて旧三井物産を飛躍させていく、安川の実業家としての才能が開花していく。

    安川はその後、ニューヨーク支店次長、天津支店長、大連支店長、取締役営業部長等を歴任し、1918年(大正7)に常務取締役に就任。後に、事実上のトップである筆頭常務に就任する。安川が残した実績・伝説は枚挙にいとまがないが、その業績の最も重要なところは、科学技術の重要性にいち早く着目し、旧三井物産の事業を、それまでの“コミッション・マーチャント”を脱した、産業のオーガナイザーへ進化させたことだろう。1926年(大正15)の東洋レーヨン(現、東レ)設立は、その象徴的事例と言える。

    メディアでは「カミソリ安」と呼ばれ、旧三井物産躍進の象徴と目されていた安川だが、ファッショ化の流れの中で高まる財閥批判・商業主義批判を一身に受ける形で、1934年(昭和9)退任。東洋拓殖総裁等を務めた後、1944年(昭和19)に死去した。

    石田 禮助

    Reisuke ISHIDA

    1886年(明治19)生まれ。1907年(明治40)、東京高商(現一橋大学)卒業と同時に旧三井物産入社。すぐに大連支店に赴任し、10年間の勤務の後、シアトル出張員首席に。このとき、豆油の売買で大きな損失を出し、一旦東京に呼び戻されるが、1921年(大正10)よりボンベイ支店長として再び海外へ。カルカッタ、大連、ニューヨーク支店長を歴任し、ニューヨーク時代には錫取引の大成功を成し遂げる。石田が旧三井物産で過ごした34年間のうち、海外勤務は実に27年間に及んでいる。

    1933年(昭和8)に取締役となり、1936年(昭和11)には常務取締役に就任するが、「とにかく商売は面白かった。ところが、常務として本店に戻って、なんでも会議、会議で実に面白くないんだ」と、1941年(昭和16)辞任。旧三井物産退社後は、産業設備営団顧問、交易営団総裁等を経て、1963年(昭和38)、民間から初の国鉄総裁に就任。大きな話題を集める。総裁在任中も、「年間50億人の人命を預かる職は、給料をもらってやるべきではない」と給料返上を申し出るなど、数々の“伝説”を残す。その生涯は、城山三郎著「粗にして野だが卑ではない」(文春文庫)にまとめられ、現在も多くの人々に共感を与えている。

    水上 達三

    Tatsuzo MIZUKAMI

    1928年(昭和3)、旧三井物産入社。この頃には、旧三井物産の古き良き時代は終わろうとしていた。高崎派出員時代に、金解禁、昭和恐慌、金輸出再禁止という荒波にもまれ、本店営業部肥料掛主任の頃には、軍部の統制が進んで、自由な経済活動は窒息寸前の状態にあった。1940年(昭和15)、天津に赴任となるが、日中戦争たけなわで、ほどなく太平洋戦争の開戦を迎える。B29の爆撃にさらされながらなんとか事業継続を試みるが敗戦。水上は、中国からの引揚団の団長も務めている。

    こうした苦難の連続の中で培われた強靱な精神力、情勢判断の的確さは、水上を戦後有数の経営者へと導くバックボーンとなった。GHQによる旧三井物産解体を受けて、水上は同志を募り、第一物産設立を企図。1947年(昭和22)、役員を含む従業員総数37人、資本金19万5千円で第一物産が設立される。第一物産は、戦後の困難な状況の中でも成長を続け、次第に大合同に向けた中心的存在となっていく。

    1959年(昭和34)、大合同が実現すると副社長に就任。1961年(昭和36)には社長となり、現三井物産飛躍に向けた陣頭指揮を執った。また、社会活動にも積極的で、経済同友会代表幹事、行政審議会会長、日本貿易会会長を歴任するなど、社内外に大きな業績を残した。